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第38回 樹幹流

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  雨の日に森を歩くと、伝い落ちる雨水によって
  樹の幹が黒光りしている様子が見られます。

  森に降った雨のうち、樹の幹を伝って流れる水のことを
  樹幹流(じゅかんりゅう)と呼びます。

  樹の幹を這うようにして流れてきた水は、
  樹の根元で土の中に吸い込まれていきます。
  どんなに強い雨でも、
  森では雨滴が地面に直撃するということがほとんどありません。
  たたきつけるように降って地表を痛め、
  荒々しく削り取っていく強い流れになることなく、
  スポンジが水を吸うように、ゆっくりと土壌へ浸みていくのです。

  そうした雨水を見ていると、巨大な水がめ、
  あるいは緑のダムともたとえられる森のしくみが見えてくるようです。

  森に降る雨は、林外雨(りんがいう)と林内雨(りんないう)
  そして樹幹流とに大別されます。

  林外雨とは、いわゆる雨のこと。
  樹木の葉や枝や幹に触れることなく、直接、落下してくる雨のことです。

  林内雨とは、林外雨(すなわち雨)が、
  林冠(りんかん=木の上部にある枝や葉が集まった部分)を通って、
  森の中にぽたぽたと降り落ちる雨のことです。
  樹雨(きさめ)、とも呼ばれます。

  そして樹幹流──樹の枝葉に降りそそいだ雨が、
  幹を伝わって流れ落ちてくるもの。

  整理すると、林外雨は、森のあたま(=林冠)を通過することによって、
  林内雨(樹雨)と樹幹流とに分けられる、ということになりますね。

  大きな樹が倒れたあとの地(ギャップと呼ばれます)などには、
  林外雨が直撃するようでいて、その実、そうした場所には、
  たくさんの草や稚樹などが旺盛に、びっしりと生えているため、
  森における林外雨というものは、
  やはりとても少ないのだ、ということがわかります。


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  雨水は美味しくない、というのを、ご存知でしょうか?
  雨の森のキャンプなどで、鍋にためた雨滴を見てみると、
  存外と汚れていることがわかります。

  冬の森で、純白の美しい雪を溶かしたできた水を目にしても、
  やはりそのことがよくわかります。

  雨は地上に向かって降りていくうち、
  空中に漂う「ちり」や「ほこり」を取り込んでしまうのです。

  街や車道の粉塵、大陸からの黄砂、化石燃料の燃焼、
  ゴミ焼却場からのばい煙、人間や家畜の排泄物や肥料、
  雪国での凍結防止剤、などなど、雨にはいろいろな不純物まじっており、
  それが酸性雨の原因にもなっています。

  もちろん離島などでは「天水」といって、
  雨水を直接利用しているところも少なくはありません。
  しかし一般の、不純物をたくさん含んだ雨粒を直に口にして、
  美味しいわけがありません。

  ところが樹幹流をすくって飲んでみると、
  フシギなことに、嫌な味が消えているのです。

  樹幹流の水質は、ただの雨水(林外雨)に較べて、
  どのように違うのでしょうか?

  林外雨が、樹冠(じゅかん=樹の上部)を通過する際、
  そこで無数の枝や葉にふれます。
  雨水に溶けている、いろいろな成分の濃度に、
  そこで変化が起こる、といわれています。

  もちろん、森の木々の葉や枝にも「ちり」や「ほこり」は
  たくさん付着しています。
  雨水は、森を通過する時に、さらに「ちり」や「ほこり」を
  取り込みながら枝葉を伝わり、幹に到達し、樹幹流となるわけですから、
  考えると、もっとマズイ水になりそうです。

  ところが、逆に美味しいと感じられるものに変化しているのですから、
  面白いものです。

  樹によって受け止められた雨水は、
  もっぱら次のような理由で変化するといわれています。

  樹に沈着していた成分が、雨によって洗い出される。
  樹の内部からの成分が、雨によって溶け出してくる。
  樹が雨の成分を吸収する。
  樹上で雨滴が蒸発することによっておこる、雨の成分の濃縮。
  樹上に棲んでいる微生物の働き(代謝や分解)による、雨の成分の変化。
  ……

  雨は、枝葉や幹の表面を流れることで、
  そこにあったいろいろな付着物を洗い流します。
  また樹木自身から溶け出してくる成分をも、取り入れていきます。
  さらに樹の幹や枝葉には、
  コケ類や地衣類、さまざまな微生物などが棲んでいるため、
  それらの活動によって生じた諸々の成分が、
  樹幹流の中へ新たに取り込まれていきます。

  これらの作用が複雑にあいまって
  ──おそらくは何らかの化学作用を生じることで、
  林内雨および樹幹流は、
  林外雨とはその性質を異にする水と変わってゆくのでしょう。

  特に樹幹流は、林内雨に較べ量的には少ないものの、
  溶け込んだ物質の濃度は高いといわれます。
  森は、雨の勢いをいったん受け止めて緩和させ、
  ゆるやかに土壌へと届けているばかりではなく、
  その成分をも変化させていたのです。

  そして、それを人間が口にした時に、美味しいと感じるのは、
  これはもうただ不思議としかいいようがありません。
  森に雨が降る──なんということのない、
  この古来アタリマエの自然現象には、
  実はこのような奥深さが秘められていたのです。


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  ペーハー(pH)という言葉があります。酸性度を表す指標値です。
  pH7が中性、pH7未満は酸性、pH7より大きければアルカリ性です。
  純粋な水は中性で、pH7ですが、
  雨には大気中の二酸化炭素が溶け込んでいるため、
  先述のように汚染されていない雨であっても、
  そのpH値は弱酸性の5.6を示します。
  ゆえにpH5.6以下の酸性度の強い降雨が、
  かの有名な「酸性雨」と呼ばれるものとなっています。

  こうした酸性の雨水を、針葉樹はより酸性側に、
  広葉樹は中性側に変化させるといわれます。

  樹幹流のpHが低い(酸性度の高い)樹には
  スギ、ヒノキ、カラマツなどがあり、林外雨のpHよりも低い値を示します。
  他の多くの広葉樹では、林外雨よりph値が高くなります。
  ハリギリやアサダ、オニグルミ、ヤマナラシなどの樹幹流は、
  ほぼ中性を示すことが知られています。

  シラカンバは広葉樹ですが、こちらは例外的にph値が低いようです。
  逆に、針葉樹のエゾマツはph値が高い(酸性度が低い)といいます。
  樹幹流のpH値は、このように樹種によって異なることが
  知られてしますが、それはなぜなのでしょう。

  各種の樹皮から浸み出す樹液成分のちがい、
  付着する生物種のちがい、樹形のちがい、そういったものが
  樹幹流のpH値に影響を与えている、と考えられています。
  また、樹皮の表面に深い筋条の裂け目を持つ
  ミズナラやクリにおいてはカルシウムの溶出が多く、
  平滑な樹皮を持つブナでは、
  カリウムの溶け出す量が多いなどのことから、
  樹皮の形状も、樹幹流の化学成分を
  樹種ごとに特徴づける要因のひとつでは? と推測されますが、
  樹皮が滑らかなホオノキでは、両方の成分が共に多く、
  ブナとミズナラの中間的な性質であることから、
  やはりまだ未解明な部分は多いようです。

  カルシウムやカリウムなど塩基成分に富んだ樹は、
  酸性雨に対し高い中和機能を持っています。
  たとえば雨の日のブナからは、
  多量のカリウムとカルシウムが溶け出します。
  うちカリウムは、ブナの樹体からで、
  特に落葉の季節に顕著であるといいます。
  カルシウムは付着した沈着物から溶出したものと推定されています。

  樹幹を流下する過程で中和されていく水は、
  最終的には樹根部分の土の酸性化を抑止して、
  森の土壌を中性に移行させていく(=酸性化を緩和させる)ことに、
  ひと役買っているのです。

  樹幹流が、樹木の根に与える影響もまた大きい、
  ということがわかりますね。
  今後の研究次第では、樹幹流の樹種ごとによる特性を生かし、
  スギやヒノキなど単一樹種の植林によって低下してしまった土壌の力を
  混交林にすることによって復活させ、森の生産力を上げてゆく、
  そんなことも、あるいは可能になってくるかも知れません。

  ブナの樹皮を見ると、
  実にたくさんのコケや地衣類が生育していることに気づきます。
  樹皮がつるつるとしていて剥がれ落ちることがなく、
  雨水の流れやすくなっている幹の形状が、
  こうした付着性の植物や菌類のたいせつな「すみか」を
  提供することとなっています。

  興味深いのは、彼らにとって樹幹流の栄養分が欠かせないのと同様に、
  ブナにとっても、我が身の付着生物によって質的に変化する
  水流の恩恵に預かっている、ということ。

  共利共生(きょうりきょうせい)
  森の養分の循環──このような視点に立つと、
  森に降る静かな雨が綴りあげている、
  かくも壮大なドラマが目の前にゆっくりと立ち上がってくるようです。


(写真・文/河井大輔)